私が運営して来た4つのブログのうち、本ブログしか読まないネット・ユーザーには唐突な印象を与えるかもしれないが、9月26日以来、7週間ぶりのアップとなり、昨年2月に開設してからちょうど400本目となるこの記事をもって、本ブログは終結することにした。
今月2日に開設以来の延べアクセス数が100万PV、翌3日には延べ訪問者数が50万人を超えたことも、いい潮時だと決断する要因になった。
他の3つのブログも順次終結させるが、その理由は、私の年齢的な要因などにより、これまでのような記事の書き方でブログを運営することが、心身両面で無理になったためである。
先日、この終結の方針を決めたものの、あと1本、本ブログの本来の狙いに相応しいテーマを見出せなくて、なかなか記事を書き出すことができなかったが、今週、久しぶりに面白い香港映画である「コールド・ウォー 香港警察 二つの正義」を観たことから、この作品を素材に最後の記事を掲載することにしたい。
と言っても、エンドロールを含めてわすが102分の上映時間の中で、ストーリー展開が二転三転どころか四転五転し、伏線であることに気づかないまま終わるような設定が山盛りで、かつ、明確な答えが示されない幾つもの謎も残る本作を、1本の記事で解説することは不可能である。
この記事では、本作のチラシの裏面や予告編の冒頭で「『インファナル・アフェア』以来の傑作」と謳われた惹句が妥当なのかを前触りとして書いた上で、映画の原題である「寒戦」=コールド・ウォーの意味を明らかにしつつ、「インファナル・アフェア」と同様、第1作の撮影中に製作が具体化した続編の内容を規定すると予想される、ラストの2つのシーンにおいて相次いで現れる2人のメイン・キャラクターが愛読する外国人の著作の意味を分析することにしたい。
この記事に続いて書く第1ブログ「シネマナビ」の記事と併せてお読み戴き、なかなか映画館で観ることができない読者がDVDで鑑賞する際の参考として戴きたい。(ちなみにプロの映画評論家も含めて、本作について具体的にネタバレを行っている記事は、ほとんどないと思う。)
【「インファナル・フェア」との共通点と相違点】
2002年と2003年のたった2ヵ年で3部作として製作された「インファナル・フェア」シリーズが、香港映画に留まらず、日本映画を含めたアジア映画の最高のシリーズ作品であり、屈指の警察物映画であることは間違いない。
それに対して、「コールド・ウォー」の場合は、3部作として作られるかどうかはまだ不明であり、脚本も担当するリョン・ロクマンとサニー・ルクの2人の共同監督は続編の脚本づくりに時間を掛けると語っているので、3部作化される場合、5年程度のプロジェクトになるのではないか。
イギリスから中国に施政権が返還されたことに伴い、香港映画界としては、中国本土もマーケットとして製作資金の回収を図ろうとすると、映画のテーマやストーリーの設定に制約を受けることになった。
それは、香港映画だけの問題ではなく、資金力のあるハリウッド映画でも、「アイアンマン」シリーズのような大ヒットですら中国の観客向けの別バージョンを作る有様である。
このため、「インファナル・フェア」の場合、マフィア出身の主人公だけが生き残って、香港警察を牛耳るようなストーリー展開であったため、中国本土では上映されなかった。
それに対して本作は、香港だけでなく中国でも大ヒットして、10億円という破格の製作費が回収されたが、それは香港警察内部の対立や腐敗を扱いながら、最後は有能な警察官僚が勝利を収めるという結末になっているからだろう。(その勝ち組となる副長官が、現場の経験が豊富な叩き上げの方ではなく、現場を知らないエリートの方であったことも、共産党幹部にとって望ましいオチであったのかと勘繰りたくなる。)
問題は、続編においても、こうした権力側から見て都合の良いオチが用意されるかだ。
話を戻すと、「インファナル・フェア」シリーズは、容貌と置かれた立場は二卵性双生児と言っていいラウとヤンという同年配の2人の男が主人公のドラマで、第1作のラストで権力側の潜入捜査官であるトニー・レオンが演じたヤンの方が殺されてしまった。
それで1つの完結した物語のように見えたが、第2作において2人の過去が語られ、現在のシーンと往還することで、第1作では伏線であることが分からなかったシーンの意味が次々と明らかになることにより、情感溢れる人間ドラマとして観客の心に強く響いた。
それに対して、「コールド・ウォー」の場合、「インファナル・アフェア」と同様、第1作の原題がそのまま踏襲され、続編であることを示す?や?が付されるかどかうは未定だ。
仮に「コールド・ウォー」の原題である「寒戦」が継承されると、やはりこのタイトルに深い意味があったことが裏付けられると言える。
そして、本作での主人公は、「インファナル・アフェア」と同様、リーとラウいう2人の男が主人公であると言っても、共に警察官で地位がナンバー2の立場であることだけが同じだ。(下の画像参照)
2人の年齢は少し離れており、警察官としてのキャリアだけでなく、生き方や考え方も対照的である。
子供も、片方は同じ警察官になった一人息子で、もう一方はまだ幼い一人娘だ。
この最後の点が、後述のように、続編において一層意味を持つことになる。
さらに、本作では続編においても、同一人物が主人公であるかどうか分からない。
2人の男が対立する構図は継承されても、リーの息子とラウの後継者と目される若者に世代代わりが行われる可能性が高く、リーとラウはサポート役に回るかもしれないからだ。(この点、「インファナル・アフェア」の第2作も、青年時代のラウとヤンが主人公と言えるので、実質、世代代わりと言えなくはない。)
加えて「インファナル・アフェア」では、主人公2人を逆の立場の組織(警察とマフィア)にそれぞれ送り込んだフィクサー的な人物が最初から明かされるのに対して、本作の場合、警察内で陰謀の中心となった人物を操った黒幕の正体は隠されたままだし、第1作で死んでしまう人間を含めて、誰が陰謀に加担したのかの全容は明確にされない。
一方、スケジュールの都合で特別出演に留まったが、「インファナル・アフェア」でラウを演じたアンディ・ラウが、本作では香港警察を統括する政府の幹部として登場し、香港の街並みの景観が生かされた映画になっていること、ビルの屋上と超高層ビルの展望フロアの違いはあるが香港を見下ろす形で2人の男が対峙するシーンがクライマックスの1つで登場すること、重要人物の1人が車に乗ろうとするシーンで突然爆死すること、主人公の1人が手にする封筒がストーリー展開上、重要な小道具になっていることなど、本作を観ていると、「インファナル・アフェア」を思い出さざるを得ないことも事実である。
だが、オープニング早々から爆破シーンやカーチェイス、さらには銃撃戦が繰り広げられる本作のウリは何と言ってもド派手なアクションであり、102分というまったく同じ上映時間で「動」よりも「静」を基調に緊迫感を持って進む「インファナル・アフェア」シリーズの第1作とでは、テイストが大きく異なる。
私が信頼する映画評論も書いているノンフィクション作家の沢木耕太郎さんが、朝日新聞に不定期で寄稿している「銀の街から」の最新回「『コールド・ウォー』緻密に練られた謎が疾走」(新聞掲載は10月25日(金)朝刊、朝日新聞デジタル掲載は11月6日(水)。→ネット記事とのリンクは、こちら)において、本作の監督であるロクマンが美術担当、ルクが助監督の出身であることから、撮影監督出身のヤン・デ・ポンになぞらえて「これは『スピード』と同じように続編が作られることになるだろう。だが、その続編は、凡作だった『スピード2』とは異なり、前作を凌駕する、さらに大きなうねりを持った傑作に成長するような予感がする」と締め括っていることは正鵠を得ているが、前述のように「『インファナル・アフェア』以来の傑作」ではあっても、「並ぶ傑作」でないだけでなく、「迫る傑作」かどうかも続編を観ない限り評価できない。
【本作の原題の意味】
本作の原題は「寒戦」だが、邦題では英語の「コールド・ウォー」を使用した。
副題として付けられた「香港警察 二つの正義」の適否については、第1ブログの記事で取り上げるが、「コールド・ウォー」は日本では「冷戦」の意味で使われることから、イメージがかなり異なる。
日本語では、「寒戦を覚える」という用例があり、「寒さに身ぶるいすること」だが、原題の「寒戦」の意味も、映画での季節設定が12月であることから、作戦のコードネームの名付け親である香港警察の「行動班」を所管するレオン・カーファイが演じる副長官のM・B・リーは、単に「冬の戦い」という意味で使用したに過ぎないのかもしれない。
捜査や逮捕、突撃の部門を預かる彼にとって、警察の仲間の奪還作戦は、まさに犯人=敵との戦争であった。
だが、なぜか内勤の「管理班」を所管するもう1人のアーロン・クォックが演じる副長官であるショーン・ラウは、この命名に違和感を持つ。
前記の沢木さんが映画評の中で書いている「観客の意識が一瞬そこで立ち止まり、「あれっ?」と思わせる要素」に該当するかどうかは不明だが、私には引っ掛かった場面の1つだ。
そして、映画を観終った後、沢木さんが主張する「観客に、そうかあのとき自分が『おやっ?』と感じたのは正しかったのだと思わせることができた」と言うことができず、曖昧なまま終わる伏線の1つでもある。
それでもヒントになると思われるのが、ラウが引用するチャーチルの言葉だ。
前述の後半に登場する超高層ビルの展望フロアのシーンで、彼は「すべての戦争は必要でない」と言うが、叩き上げのリーに対してインテリのラウは、イギリスの統治下にあって英語に堪能で英国式の教育を受けたことは想像に難くないので、チャーチルのこの言葉が警察官としての座右の銘であったのだろう。
ちなみに「コールド・ウォー・ウィッチ」(冷戦の魔女)という呼び名は、「鉄の女」の愛称で知られる英国の元首相マーガット・サッチャーに与えられたものらしい。
フォークランド紛争で男勝りの決断を行った彼女に相応しいネーミングかどうか私には分からないが、少なくともイギリス議会の運営に当たってイデオロギー論争に長けた宰相であったと言える。
それに対してチャーチルは、第2次世界大戦後の戦勝国であった米ソが対立することになった「冷戦時代」をリードした政治家ではなかった。
当初は対立したリーとラウは、人質となった警察官たちを奪還した時点で和解し、ラストでリーは、長官と共に早期退職して、後任の長官の座を香港警察始まって以来の最年少での就任となるラウに譲る。
警察本部のビルを去ったリーを追い駆けた来たラウに対して、彼は「上司は部下を追ってはいけない」と諭し、「チャーチルの言葉の理解の仕方が間違っている」と指摘するのだ。
「コールド・ウォー」作戦は、確かに第1作では警察の威信を保持する上で「意味のある必要な戦争」だったが、続編においてもそうであるかどうかは不明であり、「コールド・ウォー」とチャーチルの言葉の真意が明かされるのは持越しになったと私は考えている。
【ラスト・シーンで登場する2冊の本の意味】
通常、映画のネタバレと言えば、ラスト・シーンの意味を明かすことだ。
本作の場合、それが続編に繋がっているだけに、ますますネタバレとしての重要性を持つ。
だが、前述のようにストーリーが四転五転し、冒頭の何気ないニュースの声から伏線が始まっている本作の場合、どのシーンが伏線であり、それが後のシーンでどう回収されたのか、それとも結論が曖昧なまま終わったのかを峻別して説明することこそ、真のネタバレである。
だが、プロの映画評論家でも、そんな解説を完璧に行える者はいない。
「これから観る読者の楽しみを奪わないようにネタバレを避ける」という言い訳の下、自らの認識を具体的に示さずに読者の自己責任に委ねる解説者ばかりである。
上述の沢木さんの言い方も、その一種と言えるが良心的な方であり、沢木さんと違って映画評論が本職である前田有一氏が自身の「超映画批評」サイトにおいて、本作の解説記事のタイトルを「華やかな一般向けアクション映画」とし、「登場人物はよく描き分けられているし、ストーリーも分かりやすい」とか「映画としてはごく普通の大衆向け刑事ドラマ」と書いているのは問題外の論評であり、何も理解していないことを示しているに過ぎない。
私の場合は、伏線の読み解き方の問題については、不十分ではあるが映画評論家たちよりも具体的に第1ブログで書くつもりである。
さて、問題のラスト・シーンの意味だが、香港警察の長官となったラウは、公用車の後部座席に座って架橋を通過している。
橋の構造から分かるが、2009年12月に開通したランドラー海峡に架かるストーンカッターズ橋だろう。
発注者はアンディ・ラウが演じたフィリップ・ロクが所属する香港特別行政区政府であり、日本の企業3社が参画するジョイント・ベンチャーが施工した世界最大級の斜張橋である。
その車の中でラウ新長官が読んでいるのは、チャーチルの回顧録だ。
リーに認識間違いを指摘されたから、もう一度、愛読書を読み直しているのではないか。
その結果、かつてのライバルが命名した「コールド・ウォー」に納得するのだろうか。
その時、彼のスマホに通話が入るが、相手は今回の警官拉致事件の黒幕だった。
敵はラウの妻と娘を誘拐し、収監されている1人の男の釈放を求める。
続いてエンドロール直前に登場するのは香港の刑務所の一室だ。
そこに収監されているのは、射殺されたと思ったリーの息子ジョーだ。(上の画像参照)
彼は映画の冒頭で拉致された緊急部隊の5名の隊員の1人だった。
不敵な笑みすら浮かべる彼が獄中で読んでいる本のタイトルが映る。
「シャドウ・ウォリアー」と読める。
この本は、ネットで検索しても解説している記事がヒットしないが、オーストラリアの特殊部隊出身で、精神に支障をきたして殺人兵器化したデヴィッド・エヴェレットの自伝とのことだ。
それは、ジョーにとって理想とする人物の生き方を学ぶ書なのだろう。
陰謀の黒幕が交換要員として指名したのは、このジョーだった。
出獄した彼は、黒幕の指示を受けて、今度はどんな事件を画策するのか。
その事件に協力する警察関係者は誰なのか。
第1作では、拉致された息子を取り戻すために強引な作戦を進めた父のリーは、続編ではどう関与するのか。
それに対して、ラウはどう立ち向かうのか。
沢木さんが語ったとおり「大きなうねりを持った傑作に成長」できるのか、あるいは週刊文春の「シネマチャート」の評者の1人である作家の斎藤綾子さんが言うように「壮大な事件の導入部」なのかは、刮目して続編を待つしかないだろう。(「週刊文春WEB」にアップされている記事を参照されたい。リンクは、こちら)
下の画像は、本作のチラシだが、メイン・キャラクター4人のうち1人だけ差し替えられている同じデザインの別バージョンのチラシとパンフレットは、第1ブログの記事の方に掲載します。
今月2日に開設以来の延べアクセス数が100万PV、翌3日には延べ訪問者数が50万人を超えたことも、いい潮時だと決断する要因になった。
他の3つのブログも順次終結させるが、その理由は、私の年齢的な要因などにより、これまでのような記事の書き方でブログを運営することが、心身両面で無理になったためである。
先日、この終結の方針を決めたものの、あと1本、本ブログの本来の狙いに相応しいテーマを見出せなくて、なかなか記事を書き出すことができなかったが、今週、久しぶりに面白い香港映画である「コールド・ウォー 香港警察 二つの正義」を観たことから、この作品を素材に最後の記事を掲載することにしたい。
と言っても、エンドロールを含めてわすが102分の上映時間の中で、ストーリー展開が二転三転どころか四転五転し、伏線であることに気づかないまま終わるような設定が山盛りで、かつ、明確な答えが示されない幾つもの謎も残る本作を、1本の記事で解説することは不可能である。
この記事では、本作のチラシの裏面や予告編の冒頭で「『インファナル・アフェア』以来の傑作」と謳われた惹句が妥当なのかを前触りとして書いた上で、映画の原題である「寒戦」=コールド・ウォーの意味を明らかにしつつ、「インファナル・アフェア」と同様、第1作の撮影中に製作が具体化した続編の内容を規定すると予想される、ラストの2つのシーンにおいて相次いで現れる2人のメイン・キャラクターが愛読する外国人の著作の意味を分析することにしたい。
この記事に続いて書く第1ブログ「シネマナビ」の記事と併せてお読み戴き、なかなか映画館で観ることができない読者がDVDで鑑賞する際の参考として戴きたい。(ちなみにプロの映画評論家も含めて、本作について具体的にネタバレを行っている記事は、ほとんどないと思う。)
【「インファナル・フェア」との共通点と相違点】
2002年と2003年のたった2ヵ年で3部作として製作された「インファナル・フェア」シリーズが、香港映画に留まらず、日本映画を含めたアジア映画の最高のシリーズ作品であり、屈指の警察物映画であることは間違いない。
それに対して、「コールド・ウォー」の場合は、3部作として作られるかどうかはまだ不明であり、脚本も担当するリョン・ロクマンとサニー・ルクの2人の共同監督は続編の脚本づくりに時間を掛けると語っているので、3部作化される場合、5年程度のプロジェクトになるのではないか。
イギリスから中国に施政権が返還されたことに伴い、香港映画界としては、中国本土もマーケットとして製作資金の回収を図ろうとすると、映画のテーマやストーリーの設定に制約を受けることになった。
それは、香港映画だけの問題ではなく、資金力のあるハリウッド映画でも、「アイアンマン」シリーズのような大ヒットですら中国の観客向けの別バージョンを作る有様である。
このため、「インファナル・フェア」の場合、マフィア出身の主人公だけが生き残って、香港警察を牛耳るようなストーリー展開であったため、中国本土では上映されなかった。
それに対して本作は、香港だけでなく中国でも大ヒットして、10億円という破格の製作費が回収されたが、それは香港警察内部の対立や腐敗を扱いながら、最後は有能な警察官僚が勝利を収めるという結末になっているからだろう。(その勝ち組となる副長官が、現場の経験が豊富な叩き上げの方ではなく、現場を知らないエリートの方であったことも、共産党幹部にとって望ましいオチであったのかと勘繰りたくなる。)
問題は、続編においても、こうした権力側から見て都合の良いオチが用意されるかだ。
話を戻すと、「インファナル・フェア」シリーズは、容貌と置かれた立場は二卵性双生児と言っていいラウとヤンという同年配の2人の男が主人公のドラマで、第1作のラストで権力側の潜入捜査官であるトニー・レオンが演じたヤンの方が殺されてしまった。
それで1つの完結した物語のように見えたが、第2作において2人の過去が語られ、現在のシーンと往還することで、第1作では伏線であることが分からなかったシーンの意味が次々と明らかになることにより、情感溢れる人間ドラマとして観客の心に強く響いた。
それに対して、「コールド・ウォー」の場合、「インファナル・アフェア」と同様、第1作の原題がそのまま踏襲され、続編であることを示す?や?が付されるかどかうは未定だ。
仮に「コールド・ウォー」の原題である「寒戦」が継承されると、やはりこのタイトルに深い意味があったことが裏付けられると言える。
そして、本作での主人公は、「インファナル・アフェア」と同様、リーとラウいう2人の男が主人公であると言っても、共に警察官で地位がナンバー2の立場であることだけが同じだ。(下の画像参照)
2人の年齢は少し離れており、警察官としてのキャリアだけでなく、生き方や考え方も対照的である。
子供も、片方は同じ警察官になった一人息子で、もう一方はまだ幼い一人娘だ。
この最後の点が、後述のように、続編において一層意味を持つことになる。
さらに、本作では続編においても、同一人物が主人公であるかどうか分からない。
2人の男が対立する構図は継承されても、リーの息子とラウの後継者と目される若者に世代代わりが行われる可能性が高く、リーとラウはサポート役に回るかもしれないからだ。(この点、「インファナル・アフェア」の第2作も、青年時代のラウとヤンが主人公と言えるので、実質、世代代わりと言えなくはない。)
加えて「インファナル・アフェア」では、主人公2人を逆の立場の組織(警察とマフィア)にそれぞれ送り込んだフィクサー的な人物が最初から明かされるのに対して、本作の場合、警察内で陰謀の中心となった人物を操った黒幕の正体は隠されたままだし、第1作で死んでしまう人間を含めて、誰が陰謀に加担したのかの全容は明確にされない。
一方、スケジュールの都合で特別出演に留まったが、「インファナル・アフェア」でラウを演じたアンディ・ラウが、本作では香港警察を統括する政府の幹部として登場し、香港の街並みの景観が生かされた映画になっていること、ビルの屋上と超高層ビルの展望フロアの違いはあるが香港を見下ろす形で2人の男が対峙するシーンがクライマックスの1つで登場すること、重要人物の1人が車に乗ろうとするシーンで突然爆死すること、主人公の1人が手にする封筒がストーリー展開上、重要な小道具になっていることなど、本作を観ていると、「インファナル・アフェア」を思い出さざるを得ないことも事実である。
だが、オープニング早々から爆破シーンやカーチェイス、さらには銃撃戦が繰り広げられる本作のウリは何と言ってもド派手なアクションであり、102分というまったく同じ上映時間で「動」よりも「静」を基調に緊迫感を持って進む「インファナル・アフェア」シリーズの第1作とでは、テイストが大きく異なる。
私が信頼する映画評論も書いているノンフィクション作家の沢木耕太郎さんが、朝日新聞に不定期で寄稿している「銀の街から」の最新回「『コールド・ウォー』緻密に練られた謎が疾走」(新聞掲載は10月25日(金)朝刊、朝日新聞デジタル掲載は11月6日(水)。→ネット記事とのリンクは、こちら)において、本作の監督であるロクマンが美術担当、ルクが助監督の出身であることから、撮影監督出身のヤン・デ・ポンになぞらえて「これは『スピード』と同じように続編が作られることになるだろう。だが、その続編は、凡作だった『スピード2』とは異なり、前作を凌駕する、さらに大きなうねりを持った傑作に成長するような予感がする」と締め括っていることは正鵠を得ているが、前述のように「『インファナル・アフェア』以来の傑作」ではあっても、「並ぶ傑作」でないだけでなく、「迫る傑作」かどうかも続編を観ない限り評価できない。
【本作の原題の意味】
本作の原題は「寒戦」だが、邦題では英語の「コールド・ウォー」を使用した。
副題として付けられた「香港警察 二つの正義」の適否については、第1ブログの記事で取り上げるが、「コールド・ウォー」は日本では「冷戦」の意味で使われることから、イメージがかなり異なる。
日本語では、「寒戦を覚える」という用例があり、「寒さに身ぶるいすること」だが、原題の「寒戦」の意味も、映画での季節設定が12月であることから、作戦のコードネームの名付け親である香港警察の「行動班」を所管するレオン・カーファイが演じる副長官のM・B・リーは、単に「冬の戦い」という意味で使用したに過ぎないのかもしれない。
捜査や逮捕、突撃の部門を預かる彼にとって、警察の仲間の奪還作戦は、まさに犯人=敵との戦争であった。
だが、なぜか内勤の「管理班」を所管するもう1人のアーロン・クォックが演じる副長官であるショーン・ラウは、この命名に違和感を持つ。
前記の沢木さんが映画評の中で書いている「観客の意識が一瞬そこで立ち止まり、「あれっ?」と思わせる要素」に該当するかどうかは不明だが、私には引っ掛かった場面の1つだ。
そして、映画を観終った後、沢木さんが主張する「観客に、そうかあのとき自分が『おやっ?』と感じたのは正しかったのだと思わせることができた」と言うことができず、曖昧なまま終わる伏線の1つでもある。
それでもヒントになると思われるのが、ラウが引用するチャーチルの言葉だ。
前述の後半に登場する超高層ビルの展望フロアのシーンで、彼は「すべての戦争は必要でない」と言うが、叩き上げのリーに対してインテリのラウは、イギリスの統治下にあって英語に堪能で英国式の教育を受けたことは想像に難くないので、チャーチルのこの言葉が警察官としての座右の銘であったのだろう。
ちなみに「コールド・ウォー・ウィッチ」(冷戦の魔女)という呼び名は、「鉄の女」の愛称で知られる英国の元首相マーガット・サッチャーに与えられたものらしい。
フォークランド紛争で男勝りの決断を行った彼女に相応しいネーミングかどうか私には分からないが、少なくともイギリス議会の運営に当たってイデオロギー論争に長けた宰相であったと言える。
それに対してチャーチルは、第2次世界大戦後の戦勝国であった米ソが対立することになった「冷戦時代」をリードした政治家ではなかった。
当初は対立したリーとラウは、人質となった警察官たちを奪還した時点で和解し、ラストでリーは、長官と共に早期退職して、後任の長官の座を香港警察始まって以来の最年少での就任となるラウに譲る。
警察本部のビルを去ったリーを追い駆けた来たラウに対して、彼は「上司は部下を追ってはいけない」と諭し、「チャーチルの言葉の理解の仕方が間違っている」と指摘するのだ。
「コールド・ウォー」作戦は、確かに第1作では警察の威信を保持する上で「意味のある必要な戦争」だったが、続編においてもそうであるかどうかは不明であり、「コールド・ウォー」とチャーチルの言葉の真意が明かされるのは持越しになったと私は考えている。
【ラスト・シーンで登場する2冊の本の意味】
通常、映画のネタバレと言えば、ラスト・シーンの意味を明かすことだ。
本作の場合、それが続編に繋がっているだけに、ますますネタバレとしての重要性を持つ。
だが、前述のようにストーリーが四転五転し、冒頭の何気ないニュースの声から伏線が始まっている本作の場合、どのシーンが伏線であり、それが後のシーンでどう回収されたのか、それとも結論が曖昧なまま終わったのかを峻別して説明することこそ、真のネタバレである。
だが、プロの映画評論家でも、そんな解説を完璧に行える者はいない。
「これから観る読者の楽しみを奪わないようにネタバレを避ける」という言い訳の下、自らの認識を具体的に示さずに読者の自己責任に委ねる解説者ばかりである。
上述の沢木さんの言い方も、その一種と言えるが良心的な方であり、沢木さんと違って映画評論が本職である前田有一氏が自身の「超映画批評」サイトにおいて、本作の解説記事のタイトルを「華やかな一般向けアクション映画」とし、「登場人物はよく描き分けられているし、ストーリーも分かりやすい」とか「映画としてはごく普通の大衆向け刑事ドラマ」と書いているのは問題外の論評であり、何も理解していないことを示しているに過ぎない。
私の場合は、伏線の読み解き方の問題については、不十分ではあるが映画評論家たちよりも具体的に第1ブログで書くつもりである。
さて、問題のラスト・シーンの意味だが、香港警察の長官となったラウは、公用車の後部座席に座って架橋を通過している。
橋の構造から分かるが、2009年12月に開通したランドラー海峡に架かるストーンカッターズ橋だろう。
発注者はアンディ・ラウが演じたフィリップ・ロクが所属する香港特別行政区政府であり、日本の企業3社が参画するジョイント・ベンチャーが施工した世界最大級の斜張橋である。
その車の中でラウ新長官が読んでいるのは、チャーチルの回顧録だ。
リーに認識間違いを指摘されたから、もう一度、愛読書を読み直しているのではないか。
その結果、かつてのライバルが命名した「コールド・ウォー」に納得するのだろうか。
その時、彼のスマホに通話が入るが、相手は今回の警官拉致事件の黒幕だった。
敵はラウの妻と娘を誘拐し、収監されている1人の男の釈放を求める。
続いてエンドロール直前に登場するのは香港の刑務所の一室だ。
そこに収監されているのは、射殺されたと思ったリーの息子ジョーだ。(上の画像参照)
彼は映画の冒頭で拉致された緊急部隊の5名の隊員の1人だった。
不敵な笑みすら浮かべる彼が獄中で読んでいる本のタイトルが映る。
「シャドウ・ウォリアー」と読める。
この本は、ネットで検索しても解説している記事がヒットしないが、オーストラリアの特殊部隊出身で、精神に支障をきたして殺人兵器化したデヴィッド・エヴェレットの自伝とのことだ。
それは、ジョーにとって理想とする人物の生き方を学ぶ書なのだろう。
陰謀の黒幕が交換要員として指名したのは、このジョーだった。
出獄した彼は、黒幕の指示を受けて、今度はどんな事件を画策するのか。
その事件に協力する警察関係者は誰なのか。
第1作では、拉致された息子を取り戻すために強引な作戦を進めた父のリーは、続編ではどう関与するのか。
それに対して、ラウはどう立ち向かうのか。
沢木さんが語ったとおり「大きなうねりを持った傑作に成長」できるのか、あるいは週刊文春の「シネマチャート」の評者の1人である作家の斎藤綾子さんが言うように「壮大な事件の導入部」なのかは、刮目して続編を待つしかないだろう。(「週刊文春WEB」にアップされている記事を参照されたい。リンクは、こちら)
下の画像は、本作のチラシだが、メイン・キャラクター4人のうち1人だけ差し替えられている同じデザインの別バージョンのチラシとパンフレットは、第1ブログの記事の方に掲載します。